長崎地方裁判所 昭和23年(ワ)80号 判決
原告 出口亀吉
被告 石川春次
一、主 文
長崎県南松浦郡青方町船崎郷字下ノ浜五十八番ノ五、山林一反八畝歩について、昭和十四年九月十五日頃原、被告間にされた再売買の予約は解除により効力の存在しないことを確認する。
訴訟費用は、被告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は、主文と同趣旨の判決を求めると申し立て、その請求原因として、本件山林はもと被告の所有物件であつたが、原告は、昭和十四年九月十五日被告からこれを代金百五十五円で買い受け、その引渡を受けた。ところが、被告は、右は売渡担保であつて、代金の弁済をすれば、何時でも被告に係争山林を引き渡すべき契約であつた旨主張して、昭和二十一年十月十五日原告を相手方として、福江区裁判所に対し、原告は、被告から、金百五十五円及びこれに対する昭和十四年一月一日以降支払済に至るまで、年一割二分の割合による金員を受け取り、これと引換に係争山林を被告に引き渡すべき旨の給付訴訟を提起したが、同裁判所で敗訴の判決を受けたので、更に長崎地方裁判所に控訴し、同裁判所では、右契約は、売渡担保であつたという主張の外に再売買の予約もあつたと主張して争つた。原告は、勿論そのような契約などした事実はなく、これを争つたのであるが、同裁判所は、意外にも原、被告間に再売買の予約があつたと認めて、同二十三年六月十四日被告、勝訴の判決を言い渡した。そこで、原告は、福岡高等裁判所に上告したが、同二十四年五月十六日上告棄却の判決が確定し、原、被告間に再売買の予約があつたことに確定してしまつた。けれども、昭和十四年当時に比べて、被告が再売買完結の意思表示をしたという同二十年一、二月頃以降今日に至る経済事情は、吾々の到底予想することのできない程度に急変していることは一般公知の事実であるから、昭和十四年に契約した売買代金を以て再売買の予約を強制するということは、信義誠実の原則にも衡平の観念にも反することが明かである。そもそも当事者が契約をする際には、その当時の経済的社会的法律的個人的等のあらゆる事情がその者の意識の上に働き、その事情を前提として契約の目的を達しようとするのである。殊に契約が継続的な効力を生ずる場合には、予見することのできる限りの事情の変らないことを前提として契約を締結するのが常であるから、別段明白な約束がされなくても、契約の締結に当つては、事情の変更しない範囲内でだけ契約が続くという意味の約束があると観なければならないので、若し事情が後日甚しく変つたならば、契約の効力も亦変らざるを得ない。本件売買は、今から十数年前の契約であるが、現在の貨幣価値はその当時からすると、百分の一乃至二百分の一若くはそれ以下に下落し、これに反し一般物価は百倍乃至二百倍若しくはそれ以上に高騰しており、殊に係争山林は、原告が買い受けて後、一部を開墾して畑地として耕作しており、元のままの山林ではなく、現在は全部で金六万百三十九円位の価格を有しているので、被告は、原告に対し、相当の増額代金を提供しない限り、原告としては、予約を履行し難いのである。そこで、原告は、昭和二十四年六月三十日附内容証明郵便で被告に対し、前代金を時価相当に増額し、同年七月十日までに持参支払うこと、若しその支払をしないときは、何等の催告をも待たないで、当然再売買の予約を解除する旨を通告したけれども、被告は、今日に至るも、前代金は勿論経済事情の変更による増額代金の支払をもしないので、被告に対し、本件再売買予約の解除による効力不存在の確認を求めるため、本訴に及んだ旨陳述した。<立証省略>
被告訴訟代理人は、原告の請求棄却の判決を求め、答弁として、本件山林につき原被告間に原告主張のような代金により売買契約が成立し、昭和十四年九月十五日当時右山林を被告から原告に引き渡したことは争わないが、その売買は単純な契約ではなくして、売渡担保又は再売買の予約付のものであつたのである。そうして、被告が、原告主張のようにこの事実を主張して福江区裁判所に係争山林引渡の請求訴訟を提起し、敗訴の判決を受けたが、長崎地方裁判所に控訴した結果、原、被告間に再売買の予約のあつたことが認められて、被告が勝訴し、原告から上告したけれども棄却されたこと及び昭和二十四年六月三十日附内容証明郵便で原告から被告に対し、時価相当額を支払うようとの条件附解除の意思表示のされたことは、いずれも相違ないが、契約締結後、経済事情が変更して物価が高騰したのに債務者が時価相当額を支払わないからとの理由で、契約の解除をすることを認めるとすると、経済界に大混乱を招来することになるから、斯様な理由による契約の解除は、許されないものというべきである。(一)仮にそうでなくして、右原則の適用があるとしても、被告が、本件再売買の予約について、その完結の意思表示をしたのは、昭和二十年二月中のことであり、当時の経済事情としては、多少の物価騰貴はあつたけれども、必ずしも直ちに事情変更の原則の適用され得る程のものではなかつたのであり、しかも被告は、その完結の表意の際及び前示訴訟事件の上告棄却の判決言渡直後の二回に亘り、代金百五十五円を原告方に持参して弁済の提供をしたにもかかわらず、原告が故なくこれを受け取らなかつたのであり、斯様な特別の場合には、被告としては、単に右完結の表意当時の時価すなわち前示代金を支払えば足るものと解するのが相当である。(二)仮にそうでないとしても、原告が昭和二十四年六月三十日支払の催告をした時価相当額とは、一体どんな価格をいうのか判らなかつたため、被告は、これを支払つていないのであるから、その催告に応じなかつたとしても、契約解除の理由にならないこと勿論である。従つて、原告の本訴請求は失当たるを免れない旨陳述した。<立証省略>
三、理 由
本件山林につき、原被告間に原告主張のような代金により売買契約が成立し、昭和十四年九月十五日当時原告が被告から右山林の引渡を受けたこと、被告が原告主張のように右売買は単純な契約ではなくして、売渡担保又は再売買の予約付のものであつた旨主張して、福江区裁判所に係争山林引渡の請求訴訟を提起し、敗訴の判決を受けたが、長崎地方裁判所に控訴した結果、原被告間に再売買の予約のあつたことが認められて、被告が勝訴し、原告から上告したけれども棄却されたこと及び昭和二十四年六月三十日附内容証明郵便で原告から被告に対し、時価相当額を支払うようとの条件附解除の意思表示のされたことは、いずれも当事者間に争がない。
そこで、進んで、本件のような場合に、果して原告主張のようにいわゆる事情変更の原則の適用があるかどうかについて按ずるのに、凡そ期間の定めのない再売買の予約が成立した後、経済事情の予見し得なかつた激変により、貨幣価値の著しい低下を来たし、且つ予約権利者において予約義務者が貨幣価値の暴落によつて損害の加増を被るのであろうことに意を介せずに漫然日子を空費した場合、なお約定の代金額に基く再売買完結の意思表示をなすなどのことは、まことに取引の信義に反して非合理を貫かんとするものであるから、斯様な事態においては、予約義務者において予約権利者に対し、相当額の増額対価の提供を請求し、もしこれを拒絶さるれば、予約を解除して右の非合理を是正することができるものと解するのを相当とするところ、本件再売買の予約の成立した当時に比して、昭和二十年一、二月頃までは左したる物価の高騰は認められなかつたが、その後殊に終戦直後頃から俄然急激な高騰が起り、前示昭和二十四年六月末当時にはその高騰率が数百倍に達するに至つたことは、一般公知の事実であるから、事情変更の原則は当然右再売買の予約にも適用されるものと断じなければならない。ところで、被告の(一)の抗弁の当否であるが、この点については、たとえ被告がその主張のように弁済を提供し、原告が故なくこれを受領しなかつた事実があるとしても、単に斯様な一事だけでは足らず、更に進んで、少くとも前示訴訟事件の上告棄却の判決言渡後遅滞なく、被告において、判決により給付を命ぜられている代金額を弁済のために供託する等の処置を執らない限り、その後原告から支払催告を受けた当時における時価の支払をしなければならなくなるものと断ずべきであるから、被告の右抗弁は理由がない、次に被告の(二)の抗弁については、成程原告が昭和二十四年六月三十日被告に対し金額を確定しないで時価相当額を支払うよう催告したことは、被告所論のとおりであるが、鑑定人橋口吉松の鑑定の結果によると、当時における係争山林の価格が約一万五千六百九十円であつたことが推認されるのであつて、苟くも被告としては、諸般の事情を誠実に綜合判断しさえすれば、必ずしもこれに近い大凡の価格を知ることは決して不可能でないのであるから、斯くて知り得た右大凡の価格に相当する右金員を遅滞なく弁済のため現実に原告に提供し、若し原告がその受領を拒絶するときは、該金員を弁済供託することを要するにもかかわらず、被告挙出の全立証によつても斯様な事跡の是認し難い本件では、被告の右抗弁も亦理由がない。
そうだとすると、原告の前示条件附解除の意思表示は、その条件の成就により、解除の効力を生ずるに至つたことが明かであるから、原告の本訴請求は相当として認容すべきである。そこで、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八十九条を適用し、主文のとおり判決した次第である。
(裁判官 林善助)